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資料編11回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その2

物語を物語る

資料編11回目
前回からの続き、丸谷才一「忠臣蔵とは何か」から、必要な部分だけを抜き出していきます。
丸谷才一「忠臣蔵とは何か」

ここで取り上げるポイントは、3つ。
1、「仮名手本忠臣蔵」が御霊信仰の物語であること。
2、この物語に「国ほめ」という信仰が含まれているということ。
3、カーニバル的要素があるということ。

一文で言い表している部分を引き出すとすれば、『「仮名手本忠臣蔵」によって味あうものは、御霊会=カーニヴァル的世界感覚とでも形容するしかない猥雑な静けさ、秩序感にあふれた混冥(こんめい)、感動と哀愁と解放と浄化である。』、あたりになるだろう。
それを、端的に一言で言ってしまえば、「鎮魂」となるでしょう。

また何十回と言っている「仮名手本忠臣蔵が新田義貞及び新田一族の鎮魂劇である」というのは、「東毛奇談」第5章で詳しく書いてあります。(ここでも、「忠臣蔵とは何か」取り上げています。)

さてさて、では本文からの抜き出しを。
1、御霊信仰の部分

……これは柳田国男と折口信夫によって説かれて以来、次第に浸透して、今ではもう定説となった考え方だが、宗教論的な層で言えば、「曽我物語」は御霊信仰の物語である。御霊信仰の定義づけはむづかしいけれど、ここではとりあえず、非業の最期をとげた者、殊に政治的敗者の怨霊がたたって疫病その他の災厄をもたらすという日本の古代信仰、と言って置こう。アメリカの宗教学者ロバート・J・スミスが御霊をvengeful god(復讐神)と訳しているのは、わかりやすくていいかもしれない。そして、死霊が怒って禍をもたらすと考える以上、それを何とかなだめようと企てるのは当然のことだった。たとえば貞観五年(863)は春のはじめから疫病がはやって死者の多い年だったが、五月、清和天皇は、神泉苑という御苑を開放して、早良親王ほかの怨霊を慰撫するため、御霊会を催した。こういう折には、僧が経を読み、楽師が音楽を奏し、力持ちの相撲、役者の芸などを見物するのが当時の習わしだったと『三代実録』に見える。この信仰がそののち一向に衰えず、むしろ盛んになったことは、菅原道真、平将門、後鳥羽院などの例によって明らかである。

(丸本歌舞伎時代物には)呪術性とりわけ御霊信仰がある。能や相撲の場合にしてもそうだが、一体に娯楽の基盤には祭祀という性格がしっかりとあって、それが常に作用していたし、ときにはすこぶる露骨な形で現れた。丸本歌舞伎時代物でこの局面が典型的に現れているのは『菅原伝授手習鑑』で、言うまでもなく、これは菅原道真の怨霊慰撫が全体を貫いている。

本書では、佐藤忠男の「忠臣蔵――意地の系譜」から引いているが、これは分かり易い。

「弱者がある政治的主張を内に含んで盛大に意地をはったにもかかわらず、それが政治的にさらに問題をこじれさせることにならずにむしろ体制の強化に役立つ伝説へと発展的に解消していったのは、一切が、祖霊信仰という共通の信仰的基盤の中で丸くおさめられたからである。日本人のごく一般的な意識の中では、神道も仏教も、先祖の魂を祀るということの二つの異なった形式以外のものではない。この祖霊信仰がひとつの極端な形としては、怨みを残して死んだ者の霊はたたる、という御霊信仰になるが、『忠臣蔵』は怨みを残して死んだ浅野の霊を四十七士が晴らしてくれたのだからめでたい、ということになる。」

ここはまさに「御霊信仰」の部分をそのまま抜き出しました。

次が 2、「国ほめ」の部分。

地理への関心ないし国ほめの要素がある。これは一方では、すこし前から盛んになった東西交流のあらわれであり、他方では、王朝和歌の歌枕や古代の国見にまでさかのぼることのできるものだが、丸本歌舞伎時代物は諸国名所を舞台にすることを好んだ。たとえば『義経千本桜』では、大物浦にもその気配はあるけれど、吉野山が典型的にそうだった。「吉野の花の爛漫と、吹雪にまがふ山おろし」に、もうひとつ、狐火などというしゃれたおまけまでつけてもらって、観客は居ながらにして名所見物を楽しみながら、国土を賛美したのである。この国ほめにはもちろん呪術的な意味合いがあって、古代人の場合ほど単純ではなかったにしても、賛美された国土は豊饒と安穏をもってお返ししてくれるはずだと心のどこかで期待していたにちがいない。地理に対する知的な関心や観光趣味の底で、古代信仰の名残りが脈打っていたのである。

歳時記性という要素がある。これも至って分かりやすい。例えば『義経千本桜』、伏見稲荷鳥居前の場で、梅が咲いている。下市村椎の木の場は秋で、いがみの権太が木の実を拾うコツを教える。吉野山道行の場と川連法眼館の場は春で、芝居小屋のなかで豪勢な花見酒である。四季の移り変わりで情趣を出すという狙いもあるが、俳諧の場合でも季語を支えているのは、四季の正しい循環とそれによる五穀豊穣を祈る心だった。丸本歌舞伎時代物に同じ信仰がはたらいていることは念を押すまでもない。

義経千本桜『義経千本桜』 四段目 吉野山花見

(「忠臣蔵」の説明から)足かけ三年にわたる出来事なのに、陽春にはじまり早春に終わり、結末は発端にきれいにつづいて、季節は円環を形づくるのである。これが人々の心に与えた不思議な感銘は、やはり見逃してはなるまい。
(仮名手本忠臣蔵は)そこでは、御殿から陋屋まで、遊所から高家の邸の炭部屋まで、征夷大将軍の弟から盗賊まで、足軽から大名の夫人までという構図によって、社会全貌が示させる。南北朝時代は江戸時代とそっくりな身近なものとなり、その異様な混淆は、年号のある歴史ではなく歴史一般を差し出す。舅殺しかもしれない猟師は忠義な武士であり、遊女は猟師の妻であり、もっとさかのぼれば武士の恋人である腰元だった。しかも、大星由良之助の向こうには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹だという、事実と虚構との二重構造によって、「実は――」はいっそう込み入ってくる。大名と浪人の切腹は社会の礼法を保證し、長く長くつづく焼香の手本となるだろう。鎌倉、東海道、山崎街道、祇園、山科は日本の地誌を代表し、道行の桜と菜の花、水無月の鉄砲雨、討ち入りの雪は、この風土の暦の全体を暗示する。このような秩序のなかでこそ、巧妙に秘匿された御霊神(歌舞伎役者たちは今でも塩谷判官のことを「判官様」と呼ぶ。ちょうど「東海道四谷怪談」のお岩を「お岩様」と呼ぶように。これは明らかに御霊神への畏怖の名残りである)は天下をおびやかし、それを慰撫しようとして四十七人の浪人は画策し、供物としての首は見事に献げられ、そして茶を飲んだり、弁当を使ったりしながらゆるゆると見物していた人々は、物騒な祭儀がとどこおりなく終わったことを喜んで、一種晴れやかな祝意を表しながら、この興行は四十七人の怨魂を鎮める祭だから彼らが自分にたたることはまずなかろうと、意識下の仄暗いところで楽観することができた。「仮名手本忠臣蔵」はそういうそれまでの演劇の集大成でありながら、しかも呪術性があらわではないという点でも、当時としてはまったく新しい形、未来に向けて用意された宗教劇であった。
(中略)
この事件それ自体が、芝居ごころのふんだんにある祭祀、式次第にきちんとのっとった大がかりな祭典劇であるということを漠然と感知している……。

長々と引用したが、簡単に言ってしまうと、高貴な人から下賤なものまで、季節は春夏秋冬の一年中、地理的には東西南北の隅々まで、そういったものすべてがこの物語の中に組み込まれているということ。また、これを語ること・演じることで、結果、魂の鎮魂・慰霊が行われていることになっているのだ。これがまさに、日本という「土地」を褒めること、「国ほめ」という信仰にもつながっていくことになる。
本書では、「仮名手本忠臣蔵」の中に、この信仰が含まれているということを詳しく解説している。
そして、こういう一文がある。
『江戸中期の人々は、自分の属している社会が無事に存続するための儀式としてあの芝居を興行し、見物した。』
つまり観る側にも「鎮魂」という意識があったということだ。
劇や物語の中にこういう信仰が根底に流れているというのは、「仮名手本忠臣蔵」に限ったことではないだろう。他の歌舞伎の中にも、また日本で昔から行われていた能、神楽、祭といった儀式・劇・祭事の中にも、しっかりとこの信仰が根付いている。表現する方法は各々違えども、これらはすべて同じ(日本的)信仰が根幹となっているのだ。
詳しくは過去記事「井沢元彦「怨霊と鎮魂の日本芸能史」などから。」で。
だが、余りもに浸透し過ぎて、逆に現代の日本人には、そこに気付かないのか、それとも本来の意味が忘れて去られてしまったのか。どちらにしても日本の劇・物語・祭事・儀式といったものの中の「魂を慰める」という「鎮魂」があるということを忘れてはならない。
それは、東日本大震災という「厄難」を向かえた今、尚更考えるべきことなのだ。
(だから、「祭り」は中止せずにドンドン行うべきなのだ。 過去記事 いま日本に必要なのは「ディズニーランド」でも「パンダ」でもない。「祭り」や「年中行事」「花見」こそいま行われるべきなのだ!)


で、次が、3、カーニバル的要素があるということ。

彼らが、大名の火事装束に通う趣きのある大星由良之助に衣装に触発されて見たものは、華麗な装束に身を固めた塩谷判官が上天にあって、四十七士を指揮する、あるいはむしろ守護する、姿であったろう。この幻想は当時の人々の世界像からすればごく自然な帰結であった。彼らはわれわれと違って死後の世界の実在を信じていたし、死者の霊が生者と語り合うというのは、ほとんどすべての人が受け入れている(受け入れているふりをする)風俗だったからである。言うまでもなくこの幻想は危険きわまりない。ほんの少し延長すれば、いや、このままでもすでに、幕府に対する藩ぐるみの反逆、大がかりな内乱を意味するからである。

(「地震 雷 火事 親父」の「親父」は幕府と解説したことを踏まえて)……つまり庶民の生活にとって最も迷惑なもの四つを並べた物づくしで、四つ目は実は幕府を指していたと解釈している。すなわち悪政は、死人の霊を味方に引き入れて戦うに値する、ずいぶん格の高い敵(かたき)であった。
しかし暴政苛令が地震、雷、火事と同じくらいの困りものだとしても、ブレス・キャンペインもデモもストライキも許されていない以上、それを攻撃する手立てはなかった。辛うじてあったとすれば、せいぜい浄瑠璃と歌舞伎くらいのものか。そこで民衆は気の弱い(そして意外に賢い)息子よろしく、この権柄づくしな親父に手向かうため、浄瑠璃や歌舞伎を見物しながらまこと悠長に気勢をあげることになる。三都の芝居小屋において歌舞音曲で景気をつけながらおこなわれたのは、権力に対する面従腹背の反抗、二枚舌の政府批判、呪術による蜂起であった。


仮名手本忠臣蔵 1
(「道行旅路の花婿」の場面)

カーニヴァルは主としてカトリック教国の春の祭りで、三日間にわたって行列、仮装、見世物、馬鹿騒ぎを行う。現在ではブラジルのリオ・デ・ジャネイロ、フランスのニース、アメリカのニューオリーンズなどのものが有名だが、かつてはローマのカーニヴァルが最もよく知られていた。デュマの『モンテ・クリスト伯』から引用すれば、こんな調子の祭だったのである。

ポポロ広場には、いま、狂気じみた騒がしい大乱痴気の光景が示されていた。仮面をつけた連中の波は、あらゆるところから溢れ出していた。ピエロ、アルレキンや、ドミノや、侯爵や、トランステヴェールの服装をした連中や、騎士や、百姓などをいっぱいつめこんだ馬車が、町中のあらゆるところに流れ出していた。これらすべての人々は、喚きたて、身ぶりをしながら、麦粉をつめた卵とか、コンフェッチとか、花束とかを投げつけていた。友だちだろうが、見ず知らずの人だろうが、知っている人だろうが、知らない人だろうが、相手構わず、悪口雑言を浴びせかけ、投げつける。だが、誰もそれに対して腹を立てる権利がなく、ただ笑って済ませるしきたりになっていた。(中略)
じっさい、このときの、広い美しいクール町のことを思い浮かべていただきたい。両側には、端から端まで四階五階という大きな建物が並んでいる。至るところの露台には綴錦が掛けられて、窓口では織物がかけられている。それらの露台や窓口には、三十万人の見物が詰まっていた、ローマの住民、イタリー人、それに世界おありとあらゆる隅々からやって来た外国人、家柄の上からの貴族、財産の上からの貴族、つまりありとあらゆる貴族階級が集まっていた。美しい婦人たちも、この光景に心を奪われ、露台の上に身を屈め、窓の外まで乗り出して、通りかかる馬車にコンフェッチを雨霰と投げかける。(後略)

この祭(カーニバル)の起源ははっきりしないけれども、もともとは自然界の死と再生に関係のある、太古も農耕儀式だったろう。むずかしく言えば、それは農耕儀式以上のもので、年の再生と年の植物の再生を祈ることによって太初の時に回帰し、宇宙創造が年々に反復されることを祝う儀式(エリアーデ『聖と俗』)ということになる。
(中略)
『仮名手本忠臣蔵』は、このカーニヴァル型の祭とそっくりの構造で出来ているようにみえる。
仮名手本忠臣蔵002
(「道行旅路の嫁入り」の場面)
『仮名手本忠臣蔵』には高師直の戴冠とその王冠が奪われること、ないし春と冬の争い以外にも、カーニヴァルを思わせるものが数多い。たとえば馬鹿騒ぎとしては一力茶屋がある。見世物、つまり音楽と踊りに当たるものとしては、細かく拾えばほかにもいろいろあるにしても、さしあたり三段目の「道行旅路の花婿」と八段目の「道行旅路の嫁入」が代表だろう。後に書き足したものであるにせよ、大詰の両国橋押戻しの場はカーニヴァルの行列に見立ててもよい。あれは広場から南の通りを出てゆく祭で、その点もよく似ているようだ。そして仮装に当たるものとしては、芝居だから当たり前と言えば当たり前だが、まず役者が大星由良之助や顔世に扮し、しかもそれが大石内蔵助や瑶泉院を意味しているという二重の仮装がある。高家付人、小林平八郎が女の衣装で立ち回りするのも注目に値しよう。男が女装し女が男装するのはカーニヴァルにつきものだからである。(中略)
なお、カーニヴァルが民衆の政治的鬱憤晴らしの場になることはよくあった。

この本が奇抜でユニークな点は、終盤に展開される、「火事装束から御霊信仰=カーニバル論」だろう。詳しいことは本書を当たってもらいたい。(ぶっ飛んでいて面白い)
この説が正しいとか間違っているとかは私には分からない。そういうことは、私にはムズカシイことなので、学者先生や専門家たちが論争すればいいという、別次元の話だ。
ただ、自説を貫くために、古今東西いろんな話を引っ張ってきて、付会的に関連付けしてしまうこの強引な手法、一見なんの関係もなさそうなものまで持ち出して、幻惑的に自説と結び付けてしまうトリッキーな語り口、これが私にはたまらなく、好きなのだ。
もう、至高の芸といってもいい。
こういう芸風は、山本七平や井沢元彦や梅原猛にもあるので、この「強引論理タイプ」、右も左も関係なく大好きです。
この論法技術、是非とも見習わなければ……。

横道にそれました。
本題に戻して、今回のポイントは、「御霊信仰」「国ほめ」「カーニバル」の3つです。
そして他には、「御霊信仰=カーニバルには馬鹿騒ぎが必要だ」ということと、「男が女装し、女が男装するのはカーニヴァルにつきもので、カーニヴァルが民衆の政治的鬱憤晴らしの場になること」というところかな。(これはあとで重要な点になります。)

と、まだまだ「資料編」は続く。

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