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美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その1  シリーズ第21回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第21回

前回 「天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石と来て、高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、正田家と続く予定となっています。」と書きましたが、先に正田家を取り上げることにしました。

正田家が新田一族の末裔であるというは、当ブログでも書いていて、過去記事では、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-19.htmlや「東毛奇談」でいえば「第3章4」で少し触れています。
実は、この記事は閲覧数が多い。これがどうやら「アンチ皇室」の輩が広めた「皇后の出自ネタ」と関連した内容だと勘違いしてやって来ている人が多いようだ。こういった不埒な輩が皇室の権威を貶めようとデマをまき散らしているのをあちこちで見かける。ここで一々取り上げないが、どうしてそんなウソが広まるのか。また困ったことに、これをまともに信じている人も少なくないというのが心配なところである。
ただその記事を読んで「何だ美智子皇后は(新田)源氏の末裔か」と思ってくれればいいのだが。(正田氏が新田氏系であれば、自然とこんなデマはウソだと分かるだろう。)
こういった根も葉もない噂が広まらないためにも、ここは少し詳しく書いていこうと思い、先に取り上げることにしました。

さて、「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編 シリーズ」は、新田義貞及び新田一族(児島高徳を含む)の伝承を持つ者が、時代の乱世になると突如と現れ、結果的に日本(皇室・国体)を守った、というのがテーマです。

ここでいうところの正田家というは、もちろん美智子皇后陛下のことであり、皇后陛下が新田一族の末裔であったからこそ「皇室」を守っているのではないか、ということです。

では、本題に入る前に、いくつか記事を引用します。

文藝春秋 2009年12月号の「皇室」についての対談部分から

高橋絋「……皇后さまは平成六年のお誕生日に記者から「陛下とお二人で皇室に新しい風を吹き込まれたという意見もあるが」と聞かれて、『きっと、どの時代にも新しい風があり、また、どの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています』とお答えになっている。それは伝統ということを重要視する姿勢の表れじゃないでしょうか。御成婚五十年の記者会見でも『伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります』とお答えになっている。皇室の伝統を次世代につないでいこうという使命感が感じられます。」
櫻井よしこ「皇室の伝統を絶やすまいとされる美智子さまのお姿には、本当に感銘を受けますね。『皇后さまと子どもたち』という写真集には美智子さまについて「時をつなぐ飛び石」の役割を担われようとされているのではなか、と書かれています。つまり、自身が耐え忍んだことと同じ手法や型、価値観で次世代を縛ることなく、一時代を経ることで機が熟することもある。その伝統のつなぎ目としての役割を自ら課しているというのですね。」

ポイントは、皇后陛下が持っている「使命感」だ。それは伝統を、この国を、皇室を守って次世代につないでいくという「使命感」だろう。

また、小林よしのり「天皇論」から

天皇の御威光を感じたのは、皇后の覚悟を知ったあの事件からである。
平成4年の山形国体で天皇陛下のお言葉の最中に男が突然グランドに飛び出し、「天皇訪中阻止」を叫んで、火のついた発煙筒をロイヤルボックスめがけて投げつけた。
その瞬間、美智子皇后はとっさに右手を伸ばして陛下をかばう姿勢をとられたのだ!
わしはこのニュース映像を見て感動した。
反射的に天皇を守ろうと身構えるあの姿は妻が愛する夫を守ろうとする「私的(プライベート)」な夫婦愛のレベルを越えていた。
この日本にとってかけがえのない尊い存在を守らねばという、「公的(パブリック)」な使命感を感じてしまった!
それはそれは美しい姿だった!
わしはそれ以降、皇后陛下を心から尊敬し、なおかつその向こうに天皇の御威光を意識するようになった。

(「山形国体」「皇后」などと検索すると詳しい内容が分かる。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1034998075は画像付き)
ここでも皇后陛下の「使命感」が出てくる。天皇陛下を、この国を、守るという「使命感」だろう。

みな皇后陛下のお姿を見て、何か「使命感」というものを感じてしまうようなのだ。
では、皇后陛下が発しているモノの源はどこからくるのであろうか。
結論からいえば、皇后陛下が新田源氏の末裔であれば、天皇を守ることが新田一族の末裔の「使命」だということだ。
新田義貞及び新田一族(児島高徳を含む)らが持ち続けた伝承を皇后陛下は受け継がれたのだ。

ということで次回から少し詳しく書いていきます。

とりあえずここから
正田記念館
正田記念館(正田醤油株式会社)



そして、三宅久之はこう叫んだ「俺の先祖はな、児島高徳だ!」  シリーズ~新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編~  番外編

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第20回目
今回は番外編。

たかじんのそこまで言って委員会」の増刊号という番組が始まったというので、早速、見てみた。(群馬県人なので見るのは大変だ)
いわゆる総集編ものだが、未公開部分の放送もあった。
そこに、番外編「たかじんのいつまでも反中で委員会“アジアはひとつになれるのか”」(平成22年3月14日放送分)の未公開部分の放送もあったのだが、その中の一場面で、私にとってはかなりの衝撃的事実を知ることになった。
それは、外国人参政権問題で、グダグダ言っている在日韓国人教授の朴一に向かって、三宅久之がこう叫ぶ。
知ってるか!「天勾践を空しゅうする莫れ.時に范蠡無きにしも非ず」といって、
俺の先祖はな、児島高徳だ!

三宅久之の祖先は児島高徳
なんと、三宅久之先生は児島高徳の末裔だったのだ!

だから尊皇家なのか。
新田一族と深い関係にある児島高徳なので、新田一族里見氏系の中曽根康弘と盟友だというのもうなずける話となる。関連記事

とりあえず、国史大辞典(吉川弘文館)による「 三宅氏」の解説を載せておきます。
備前国児島郡の豪族、児島三宅(三家)郷(岡山県玉野市)に出自すると伝えられるが、その祖については、百済皇子の後裔とする説、吉備一族でその名は屯倉(みやけ)の管家に由来する説、または天平勝宝年間(749~57)に三宅姓を与えられ、児島郡司の職にあったとする説。
その後についても、治承・寿永の乱で平家に属し、佐々木盛綱と児島郡藤戸に戦って邑久郡、上道郡に退くことになり、戦国大名宇喜多氏がその流れを組むとする説。あるいは児島高徳を中興の祖とし、高徳の代に備前国より伊勢国に出て、のち三河国加茂郡伊保に移ったとする説などがあるが、その系譜および事績について明確にしうる史料はない。「寛政重修諸家譜」1004によれば、三河国の田原藩主三宅氏もその後裔といわれる。

日本大辞典(平凡社)の三宅氏の解説
江戸時代の譜代大名。1558年三宅政貞・康貞父子はそろって徳川家康に見参し、旧領三河国梅坪(現愛知県豊田市)を安どされて徳川氏家臣となる。

ついでに「三宅坂」の解説
東京都千代田区隼町東部と永田町一丁目の地先を結ぶ坂。坂の東側は皇居の桜田濠に面し、ここからの旧江戸城の眺望はもっとも雄大である。ここは三河国田原藩の三宅家の上屋敷があったことにちなむ。

ほかに児島高徳については、
謎の人物・児島高徳  新田義貞伝承を追う!実は……。シリーズ8回目
「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回
三宅弥平次こと明智秀満は何者か? 新田義貞伝承を追うシリーズ7回目

などで詳しく書いています。

また、井上馨と渋沢栄一が発行した旧国立銀行券ニ円札(明治6年8月発行)には新田義貞と児島高徳があしらわれていた件については、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-525.htmlの記事で。
旧国立銀行券 新田義貞と児島高徳

天海が三宅氏の家紋「三宅輪宝」を使っていたという件は、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-386.htmlの記事で。
三宅輪宝

徳川家康及び松平家が新田源氏を名乗る過程で登場する天海とそこに見え隠れする児島高徳・三宅一族と南朝方の末裔
たち、これが「東毛奇談」のテーマでもあります。

新田義貞及び新田一族を追うと必ず児島高徳とその末裔の姿が出てくることになる。
そして時代の混乱期になると、必ず新田氏の伝承、児島高徳の伝承を持つ者が出現する。
これが「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ」のテーマです。
これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石と来て、高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、正田家と続く予定となっています。

しかしいつ再開するかは未定。
どうせだれも期待してないし……。

シリーズ 新井白石編4回目 山本七平が絶賛する新井白石の対中国、対朝鮮外交

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その4

第一回目が、白石は新田源氏を名乗ったことから、その自覚を持って何を考え、何をしたかということ。
第二回目が、その白石が皇室を守ったこと。
第三回目が、中国、朝鮮への強硬外交を取ったこと。
そして今回は新井白石編の大まとめです。

 「日本」が中国に呑み込まれないよう独立国家として存在するためには、「天皇」を中国皇帝に見立てた「象徴」とし、これをもって政治を行うことが必要であった、と白石は考えていた。
あくまでも、実質的な政治は「幕府」が執り行い、「文化、伝統、日本の象徴」として「皇室」を尊重していくことが、「日本を守る」という考え方で、より「朝幕併存体制」を実践させようとしたのである。
これは考えてみれば、現代の象徴天皇制に近い考えだ、と思う。
現代でも「保守」を掲げる人は、同じ考えも持っていると言って差し支えないだろう。(特に政治家の平沼赳夫さんが唱える「天皇制を中心とした保守政治」とは、まさにこれに通ずることではないか、と思う。)

また皇室問題、中国・朝鮮外交問題、琉球沖縄問題……など、白石は日本を揺るがすような問題点がそこにある、といち早く気づいていた。
実際、同じような問題は現代においても再燃している。(「日本」が国として存在する上では、これらの問題は切っても切れない恒常的事案だともいえるが……。) 
ただ「新井白石」が何を考え、どういった行動をしたかなど、ここに関心がある現代人にさえ、全くといっていいほど注目されていなかった。それだけに、今こそ、彼の言動を知ることが、問題解決への一つの手掛かりになるのではないか、とも感じたのである。

まさに、この点について、詳しく書いていたのが山本七平の「日本人と中国人」だった。
山本七平「日本人と中国人」日本人と中国人 イザヤ・ベンダサン山本七平(祥伝社)。
この本では新井白石について一章割いて説明している。歴史上の偉人についても容赦なく辛辣なことを書き連ねる山本七平だが、「新井白石」については異様なほど高く評価している。これが意外であり、驚きであった。
面白いのは、「人物叢書 新井白石」の宮崎道生と同じような視点で、白石の功績を賞賛していることだ。対朝鮮・対中国の強硬外交(琉球も含む)と皇室・幕府の共栄の考えは実は密接に繋がっていて、これが結果的に「日本を守る」ことなるというのが、白石の考えだった。広い意味での「国を守る」つまり「国防」を考えたということだ。
やはり、こういう点から見ても新井白石と勝海舟は似ていると思う。山本七平は、勝海舟を「その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物であった。これほどの人物は確かに全世界を通じて一世紀に一人も出まい」と評している。白石と同様、世界を見て日本を見れる大局観を持つ人物が山本七平好みだということだろう。

さて、ではいつものようにその部分の長文引用。重要点は太字にしてあります。

朝鮮の後には中国がいた。新井白石が朝鮮来聘使に見せた傑出した外交感覚、中国を絶対視しなかった白石
……17世紀から18世紀にかけては「中国化時代」であり、中国が絶対の権威であった。確かにこれに反発はあったが、しかしそれは「中朝事実」型反発、いわば「日本こそ真の中国」という考え方で、「理念としての中国」を絶対の権威としている点では、別に変りはなかった。また秀吉も、前章で述べたように、中国から見れば、自らを中国の属国と自己規定しているに等しいのである。
そして、白石の態度は、これらのいずれとも違っていて、中国文化に深い敬意を払い、それの日本への影響をはっきりと認めつつも、中国は中国、日本は日本という態度をとっていた。そして従属でもなく、劣等感から生じた反発でもなく、真の意味で「対等」という意識を持ち、両者はそれぞれ独立した国であるからお互いに違う、そこですべてにおいて対等にねばり強く「交渉」し、先方の主張を聞き、当方の意見も述べる、そして合意に達するべきだ、という態度を終始とっている。 こういう態度は実に白石が最初にして最後かもしれぬ。白石はまた天皇・公家に対しても、ほぼ同じ態度をとっている、と私は見る。
もちろん白石が交渉したのは朝鮮であって中国ではない。しかし、当時の日本と中国は「政経分離方式」で貿易をしており、修交は日本から申し込んで返事がないという状態なのだから、いつ「日中国交回復」が議題にのぼるということになるかもしれない。白石の朝鮮との交渉、見方によっては、何の理由でこんな細かいことまで一つ一つ修正を求めるのか不思議にすら思われる交渉(将軍の呼称問題や朝鮮使節応対についての変更など)の背後には、「対中国交渉の先例」という意識が、つねにあったと私は思う。
確かに中国は、朝鮮と比べると超大国である。従ってその交渉における彼我の比重は、朝鮮の場合よりはるかに日本が軽くなることはやむ得ない。従ってその交渉の結果が、朝鮮にこうしたのに、なぜわが国にそれを拒否するのだ」と。この言葉への反論は、当時の東アジアにはない。そして朝鮮との状態をそのままにしてこの言葉を受け入れれば、それは単に屈従だけでなく、国内的に大きな問題を引き起こす。
このことを念頭におかないで白石の対朝鮮交渉を見ると、彼がただただ細かい点をあげつらって、徒に朝鮮を困惑させたとしか見えないであろう。そういう見方は当時もあり、その人々の批判のため、彼は辞職すら決意している。そして同じ批判は今もある。
だが白石が「対中国交渉の先例」という点で、譲りうるぎりぎりの線でもちこたえ、執拗なまでにねばり強く交渉したのは、もちろん、理由のないことではない。そして外交交渉とは元来そういったもののはずである。

前回書いたように、細かい点までの追及が外交交渉で優位に立つ、ということに白石は気づいていた。現代はまさに中国、韓国がこれを行っている。

白石こそ「日中両国」を、比較文化的な目で見得た最初の日本人ではないかと思う。室鳩巣の「和漢の事引合候て、能弁じ申候」は、その一端を示していよう。彼は、「読史余論」では中国を基準にして日本を批判してはいない。もちろん理念として中国を基準に日本史を再構築し、それで同時代を批判したり、また逆にそれで現実の中国を基準に日本史を再構築し、それで同時代を批判したり、また逆にそれで現実の中国を批判したりするようなことは全く、やっていない。だがこの問題はまた別の機会に譲るとして、ここではただ、彼は、もし交渉がはじまるなら、「日本は日本」「中国は中国」という立場で交渉を開始できるよう細心の注意を払ったのであろう、というにとどめよう。
もちろん白石の態度の背後には、正貨流出という経済問題も作用した。また白石に強硬に反対した対馬の宗家にも経済問題があった。「経済録拾遺」(太宰春台)の「当代にも、昔より買売にて国用を足し、録食に代ふる国あり。対馬候……<中略>。
彼の態度を朝鮮への蔑視と見るべきでないであろう。中国・朝鮮への蔑視は明治以降のことで、徳川時代には庶民に至るまで中国・朝鮮尊崇であった。これはただ中国を絶対の権威とした学者にだけ見られる傾向でなく、広く一般的民衆的な、ごく自然な感情であった。徳川時代の日本は「中国」などという失礼な言葉は使わなかった。「中華」(セントラル・グローリアス)の「中」は中国では中央に位置するの意味であろうが、日本語ではミドルの意味である。従って「中国」は「ミドル・クラスの国」という意味になるから、彼らは中国といわず「上国」といった。この「上国」思想は、非常に根強く日本に残っている。日本人は常にどこかに「上国」を求める。今の日本ではおそらく北ベトナムは上国、南ベトナムは下国、北朝鮮は上国、南朝鮮は下国ということであろうが、こういう分類と平生の日本人の主張―たとえば非武装、言論の自由、表現の自由、出国の自由、等々―とが、全然無関係なのは興味深い。徳川時代の日本人は、この「上国」すなわち絶対的権威のある聖人の国には、泥棒も乞食もいないと信じていた。そして明治になって、実際にその地を旅行して驚くのである。しかしそれでも「上国」への信仰は消えず、徳川時代の考え方を引きついで、こうなったのは満州族が悪いので、これは真の中国の姿ではないと考える。従って日清戦争が侵略どころか「滅満興漢」の義戦と想定していたことは「愛弟通信」(国木田独歩)にも表れている。この方の「上国」思想もまた、今なお残っているであろう。これはやはり、日本国始まって以来の伝統だから、日本人の平生の「借りもの」の主張との矛盾などでは、消えないであろう。これから見れば、こういう矛盾すら何ら感じなかった徳川時代の「上国」思想がどれほど徹底的であったかは、想像にかたくない。従って白石の態度を、蔑視の結果などとみるべきではあるまい。

この本が書かれたのは昭和47年~49年。進歩的文化人が共産主義・社会主義賛美していたが、そんな時代背景もよく分かります。

日本の基準で日本を見よ
白石が対朝鮮交渉とその背景に想定していた対中国問題の処理において、何故あのように一種の強硬な態度を保持しつづけたか。理由は両国自体にもあるが、またそれ以上に、日本国内にあった。そういう意味では、白石の目は国内に向いており、その態度は「外交」であると同時に「内交」であった。日本には「内交」はあっても「外交」はないなどといわれるが、これは「内なる中国」を建国以来保持しつづけた国の歴史的宿命であろう。
当時、中国を基準にして日本の歴史を断罪し、天皇は中国型皇帝の位置にあるべきで、従って幕府は非合法政権であるとする見方・考え方は、すでにはじまっていた。では一体幕府は、いかなる位置において対外交渉をするべきであろう。確かに白石のように「公家権」「武家権」という考え方に立ち、天皇は武家が創り出したものだから大切にすべきで、両者は別々の権限をもって併存するものと規定し、それが「日本」なるもので「中国」とは基本的に違うという事実をそのまま事実として、これを根底においていた者には何の問題もないかもしれない。
しかしたとえ白石が、そういう立場をとったにしても、対外的では、特に対中国という点では外交交渉が即座に「幕府とは何ぞや」という難問に転化せざるを得ない実情は無視できない。当時の日本人にとっては、どう形を変えようと、考え方の基準は中国しかない。しかし「幕府」というものは、中国人の概念には存在しないものなのである。たとえばここに「封柵」という問題が起こったらどうなるか。もちろん「中朝事実」的な「日本こそ中国」論者は黙っていない。真の中国である天皇を差し置いて、中国でもない満州族国の封柵をうけるなどということは、彼らには絶対に許容できない。では、対等の立場で中国と交渉したらどうなるか。これは第一に中国はうけつけまいし、第二に、天皇は中国型皇帝であるべきだと考えている者も受けつけまい。将軍は中国皇帝と対等であるという立場は、「自分は天皇である。ないしは天皇より上である」とう宣言に等しいからである。
「外なる中国」と対等なものは、百歩譲っても「内なる中国」しか存在しないはずであるし、第一、「中国」とは絶対的な権威だから、「中国」という概念自体が、対等という概念と両立しないのである。これは一転すれば、幕府存在の基礎にかかわってくる問題である。白石が来聘使問題で一歩もひかなかったという態度を示した原因は、ここにあったと私は考える。

前回の「天皇=清国天子、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王」という図式のより分かりやすい説明だろう。

当時の日本人が、日本を基準に中国を見ることができなかった。基準はすべて中国で、中国を基準に、あるいは中国の基準と考えたものを基準に日本を見、中国を見た。一見これに反発したように見える者も、結局は、中国の基準で再構成した過去の日本を基準に、日本と中国を見た。これがいわば、尊中・尊皇思想である。これはちょうど、明治以降の日本人が、西欧から輸入した思想を基準にして日本を見たのとよく似ている。だがこの二つの見方は必ずしも同じでない。というのは当時の日本は「幕府国」であり、この存立の基礎は借物の体制や思想でなく、日本人が自ら生み出したものであった。日本は、その意味で独立国といえ、独自の国といえた。白石ははっきりと「武家」の伝統に立ち、これを肯定し、これを「日本」なるものの中枢におき、武家の基準を基準として歴史を見ていることは、「読史余論」を見れば明らかであろう。
彼は中国をよく知っていたが、それなるが故に、中国を基準で日本を見、中国の基準で自国の歴史を再構成するようなことはしなかった。そういう人であって、はじめて「日本の基準で日本を見、中国の基準で中国を見る」ことが出来たわけである。簡単に言えば彼は、モンテスキューの基準を持っていたわけである。現代の日本人に白石と同じことが出来るかといえば甚だ疑問である。いずれにしても、この「日本の基準で日本を見、中国の基準で中国を見」て、はじめて「交渉が生まれるはずである。白石の交渉の仕方、字句の一言一句まで取りあげ、その意味内容を一つ一つ検討して、訂正を求むべきものは徹底的に訂正を求めるという行き方は、「西欧的」な感じさえするが、これは、何も西欧とは関係なく、二つの基準を認め、同時にその間に共通点を求めようとするなら、だれでも必然的に行わざるを得ないことのはずである。
もちろんこれは、彼が問題にした字句の、彼の解釈そのものが正しかったと言う意味ではない。この点では確かに問題はあろうし、あるいは彼が「なま学匠」と罵った人々の解釈が正しかったかもしれない。だが、それで、この問題に対する彼の基本的態度が正しくなかったということはできない。そして彼のこの態度は、当時の日本では理解されず、またおそらく今の日本でも理解されていないようである。そして、この問題に対する当時の白石の反対論と現代の日本人のこのことへの見方が示している。

白石の考え方に対して批判的な意見も多かった、というのが分かる。

外交と内交の間の秘密
白石がいかなる面から見ても偏執狂的な信者ではない。また理由なき頑愚と言った面は皆無である。特にこの場合、そういう見方は全くあたらない。確かに彼は国内問題でも異常に細かく先例を調べ、儀礼を調査し、「経邦典例」を著わして、すべてを細かく制度化しようとした。しかしこれは、武家を基準に一つの「社会秩序」を制度として打ち立てるべく律法化しようとしてその典拠を先例に求めたのであり、その制度自体は今の基準からすれば無意味に見えるからといって、当時もそのこと自体が無意味だったとはいえない。彼は無意味な議論を実に嫌った人であった。たとえば正徳二年(1712)に林信篤が……<中略>。
白石と彼を批判する学者の差は、一方は朝鮮の背後に絶えず中国問題を想定しているのに、他方は、朝鮮との間に問題を起こしたくない、としか考えていないことである。……白石の念頭にあったのは、これによって起こる非常にうるさい国内の問題と、それの対中国関係への跳ね返りであっただろう。
以上が大体、白石の生涯における最大問題の一つであった「朝鮮来聘使問題」の概要である。この問題に対する彼の態度は、一貫して、的確に「外交」というものの本質を把握していたことを示している。もちろん彼は職業的外交官ではない。その点では対馬の「なま学者」の方が優れていたであろう。
白石はただ当時の世界すなわち東アジアにおける日本の位置をはっきりと把握していたにすぎない。そして自国を本当に知り、外国を知っていた。室鳩巣のいった「和漢の事引合候て、能弁じ申候」であり、それを基にはじめて両者に対する実に、先の先まで考慮した深い洞察と、それに基づく準備とが出来たわけである。彼の行き方と昨今の日本の対中国外交を比較議論しようとは思わない。余りにも違いすぎて、到底、対比などはできそうもないから。

江戸中期も昭和40年代も、平成の世も、東アジア外交は同じような問題を抱えているということだろう。
以上が「日本人と中国人」からの引用。

では、本文中の気になる「日本の中国」「天皇の中国化」とはどういうことかといえば、「天皇・天皇制をよむ」(歴史科学協議会編 東京大学出版会)の「天皇と皇帝 その違いは何か」の部分から引用。

日本の天皇と中国の皇帝の違いというのはきわめて重要であるが難しい課題でもある。
易姓革命説とは、天皇と皇帝を比較した場合、その最大の違いは貴族や民衆が君主と入れ替わること、すなわち王朝交替の有無にある。中国では秦以降清まで王朝交替を経ながら皇帝制度は二千年以上に及んだ。一方、日本では基本的には王朝交替が生じなかった。
中略
それではなぜ日本では王朝交替が起こらなかったのであろうか。中国思想では有徳の者が天から天下を統治するという天命を受けて天子として即位し、その王朝が天に代わり天下を支配することになる。天命の正統性は王朝の開基である受命者にとどまるものであり、その子孫の皇帝はそれを継承するものと考えられていた。「天下は高祖・太宗の二聖の天下にして陛下(高宗)の天下に非ず」(「旧唐書」)といわれていることからもそれは窺える。これは即位儀礼にも反映しており、受命者の即位は皇帝・天子の二段階であるのに対してその子孫の宮中の即位は皇帝のみである。そして受命を維持できない不徳の皇帝が現れや場合、天命は他の者に移り、新たな王朝が建てられることになる。これを易姓革命という。「易姓」とは皇帝の姓が易わる(かわる)ということである。革命には平和的な王朝交替である禅譲と軍事的に前王朝を打倒する放伐(ほうばつ)の二つの形態がある。統治すべき天下は天が生み出したものであり、天下を恣意的に扱う天子は天によって否定されるという天・天子・天下の相互関係から成り立つのである。「天下を公と為す」として出自に関わらず有徳の人物が天下を治めるという天下大同論はこれに基づく。

天皇と王朝交替
日本にも天命・天下思想は受容されたものの、革命の論理は否定された。中国においては君主である皇帝の存在を正当化する権威として天があり、天と天子は一貫して区別され続けてきた。これに対して日本では先述の共通認識に加えて、六世紀にウヂ・カバネの秩序を構築しながらも大王及び王族はそれを賜与する主体としてその枠組みに組み込まれないという超越的な立場を獲得しており、政治構造的にも王朝交替が発生しにくくなっていた。そして、律令国家の成立において明神御宇日本天皇と称するように天皇自身が神格化を果たしており、さらに八世紀前半に完成した記・紀の神話において天孫である天皇のみが君臨し得るという認識が確立した。これによって中国では区別され続けた君主の地位とそれを正当化する権威の二者の関係が日本では同一化することになり、天皇を否定し得る存在ではなくなることになる。ここにおいて不徳の天皇を理念的に否定する根拠も喪失し、革命の論理も成立する余地がなくなったといえる。
日本には王朝交替がないということは中国にも伝えられた。平安時代に日本僧然(ちょうねん)が宋に赴いた時、宗の太宗にそのことを説明して驚嘆させた。ひとつの王統が代代引き継いで世を治めるというのは天下思想においては小康と呼ばれ大同に次ぐものであった。ところが太宗は日本の皇位継承を理想としており、中国における天下思想の変化が見て取れる。


こうしてみると中国思想を受け継いでいるのは実は「日本」であり、中華理想の「皇帝」という存在は、実は「天皇」がもっとも近いものだと言うのが分かる。
また、この考えについては、山本七平の「日本人と中国人」において、全編通じて書かれている。これが非常に面白かった。
(最近、山本七平にはまっています。)
また、文藝春秋の全集「山本七平ライブラリー」では13巻目に収録されている。一冊に「日本人とユダヤ人」「日本人とアメリカ人」「日本人と中国人」が収録されていて、一冊通して読めば「日本人論」「日本国論」として読むことができます。もうこの3篇、見事という他ない。全く古びていないのが驚き。
祥伝社版は細かい意訳、解説が併記されているのでこちらは理解しやすくなっています。
山本七平「日本人とユダヤ人」

これで、新井白石編 終わり。
このシリーズ、次回は順番を変えて「正田家は新田一門の末裔であったから、美智子皇后陛下は皇室を守った編」に入ります。

シリーズ 新井白石編3回目 対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ。

新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その3
今回は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。
新井白石
前回までの要点
1、新井白石は新田源氏を名乗った。
2、その白石が、皇室を守った。
で、今回の要点は、
1、対中国、対朝鮮外交で見せた強硬な姿勢
2、沖縄・琉球対策
の2点。

彼は、江戸中期にあって、中国(清)の脅威からどうやって日本の独立を守ればいいのか、また日本の国防にはまず南の琉球・沖縄、北のアイヌのことを知る必要があるとも考えていたのだ。これらは、今回いろいろな関連本を読んで知ったことだった。
そんな偉人の足跡を知ったあとで、思い出したのが現代の政治家の「あの不甲斐ない件」のことだった。
「胡錦濤皇帝」に拝謁を賜った小沢一郎(週刊新潮 07/12/20号)
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1224508018/から。

「先例のないサービスをいただき感謝しております」。椅子に浅くちょこんと座り、背筋を伸ばした小沢一郎氏は、胡錦濤主席に声を震わせてこう言った。
人権侵害やら他国への干渉では他の追随を許さない〝中国の皇帝〝に、卑屈な態度で拝謁した小沢氏。が、開会中の国会を無視して強行した訪中に「見るに耐えない」と党内からも批判が噴出。
あれは、なんだ? あいつは本当に日本人か
 12月7日金曜日夜。北京、訪問中の小沢一郎・民主党代表が中国の胡錦濤・国家主席と会見したニュースが流れた時から、永田町は、その小沢代表の卑屈な態度に話題がもちきりとなった。
ふてぶてしさと横柄な言動が売り物で、これまで″政界の壊し屋″と恐れられてきた小沢氏。参院選大勝後の8月、アメリカのシーファー駐日大使を党本部に呼び出し、45分間も待たせて報道陣に″晒し者″にした上で、テロ特措法反対を表明するという非礼を働いたことも記憶に新しい。
 しかし、その小沢氏も中国の皇帝の前では、まるで借りてきたネコ。ちょこんと椅子に座った小沢氏は媚たような笑いを浮かべ、「ただいま主席閣下自らですね、今回の参加者の団員のものと写真を撮っていただきまして…‥・そしてまた、みんなと握手までしていただきまして……、先例のないサービスをしていただいて、本当に感謝しております」 と、小さな、そして震える声で、そう言ったのだ。
 小沢氏の上ずった声とは対照的に、余裕綽々でにっこり笑う胡主席。それはまるで、謁見に来た臣下を皇帝が日を細めて迎え入れる風情だった。

もし新井白石が、現代に生まれていたら、こんな中国に媚びた外交をする日本の(裏)トップの政治家の姿を見て「何たることだ」と嘆いたに違いない。

また、現代の沖縄については、「沖縄ビジョン」「沖縄独立運動」「沖縄の左翼化」「中国の沖縄に領事館要求」などなど、気になる点も多い。こんなのを聞くと「20年後沖縄は中国領になる」なんて説もあながち嘘話ではないかも、という気がしてくる。
今の沖縄を評して、勝谷誠彦が「本土と沖縄を分断しているのは、右の利権と左のイデオロギーだ」といったが、これまさしく的を射た意見だった。
また、小林よしのりの「沖縄論」「ゴーマニズム宣言NEO 2 日本のタブー」にこの問題が詳しく載っている。

この中で「沖縄」と「アイヌ」の関して憂慮すべき問題が多く出てくるが、ここに「日本を脅かす争点」があると気づいて、いち早く手を付けたのも「新井白石」だったのだ。

ということで、これらのことを踏まえて、いつものように長文引用。
重要なところ(あくまでも私視線で)は太字にしてあります。

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
対朝鮮外交の刷新の章から。

これは、歴史的背景が複雑である上に、この時、国書書式と朝鮮使節の待遇方法とに変更を加えたことが加わったため、予想外の波瀾を生じることになった。歴史的背景とは、室町時代前期(元中九年・1392年)に建国してより朝鮮は、わが国と通交を続けてきたのが、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって大被害を被ったため、秀吉の没後直ちに家康が修交を企てたにもかかわらず、朝鮮側は容易にその和平提案に応じようとしなかった。慶長十二年(1607)に至ってようやく国交回復が成り、彼の国から使節が送られることとなり、それ以来家光の時を例外として(この代には三度)、将軍の代初めには就任祝賀のため必ず派遣されるのが例となった。
秀吉出兵の際、朝鮮を危難から救った明王朝を敬慕する態度は少しも変わらず、日本に対しては依然として猜疑の念を抱き続け警戒的態度を棄てることができなかった。だから、この正徳の時、国書と迎接に変更を加えたことは、彼には一大衝撃だったわけである。なにぶん政治的軍事的には劣等感を抱いていたのだから、それは無理もないが、しかし、他方では自国を中華文明の正統の系統者であるとの自負をもち、日本に対し文化的優越感を抱いていたことも、両国外交を考える時顧みなくてはならない。もう一つ、両国の緊張関係を一層強める働きをしたのは、当時両国ともに朱子学の影響を強く受けて、国家の体面を重んじる心理が高まっていた状況である。
この正徳の新しい外交体例の立案企画者であり応接上での実質的な中心人物だった白石が、若き日に、天和元年(1681)朝鮮使節の来日の時、九月一日宿舎に使節を訪ねて詩を唱和し、「陶情詩集」のための序を請うたことはすでに述べた。こういう態度は独り白石だけに限らず、対馬出発以後、江戸に到るまでの使節の宿泊地ではどこにおいても、文人墨客そのほか知識人が客館を訪問して、新知識を得ようとし書画の揮毫を求めるのが当時の風習だったのである。そういう態度が朝鮮人の優越感をさらに高めた点も見逃せないところである。
この正徳元年においては白石はすでに五十六歳、詩人としては第一人者と認められ、学識においても比肩し得る者が少なかったことに加え、朝鮮国の日本観および外交姿勢にも、これまでの朝鮮使節らの日本文化人蔑視にも不満や不快感をも抱いていたから、それらを矯正した使節たちに徳川将軍の威厳と日本文化の優秀性を認識させようとの強固な意図が白石にはあったのである。これには思い過ごしとすべき点もあったが、白石には次のような朝鮮観と先入主とがあった。
①朝鮮は文事を以って復讐を意図している。
②朝鮮は家康より国家再造の恩をこうむった。
③朝鮮が清国の属国になりきらないのは、背後に日本が存在するからである。

①は、文禄・慶長の役に対する復讐を、武力では敵わないから文化の力で果たそうとしている。②は秀吉没後の和平提案により日本軍撤退後に、明国駐屯軍の横暴に苦しむ朝鮮を救ったこと(再造の恩)を感謝すべきだ、というものである。③は白石が朝鮮側の「秘事」清の康煕帝が皇子の一人を朝鮮国王の養子にしようとした時、日本の異議を理由に謝絶したという話を聞知していたことによる。それはともかく、朝鮮が完全には清の属国とならず、自国の風習や伝統文化を保持し得ているのは、日本が背後にあって清国を牽制しているためだという判断である。

当時の日中朝の関係が実に興味深い。朝鮮が中国側にすり寄って日本に対して優位に立とうとしている。しかし、実のところ、朝鮮の中国からの独立は、その背後に日本という存在があるからだ、という事実もあるのだ。これは、現代にもそのまま当てはまる。(まあ、日本というよりアメリカだけど…)

他方、朝鮮使節の側にも不吉な先例があったため、始めから不安と警戒の心理が強く働いていた。すなわち、①自国の体面を傷つけられない。②通信使の任務はきわめて重大。③今回の将軍称号変更の理不尽な通告から推しても、新たに不法な要求がなされるおそれがある、などである。
①は文化的先進国をもって自負していただけに用心も大きかった。②はもし使命を全うし得ない場合には、帰国後に処罰される心配があった。(慶長十二年に先例)。③は使節一行がすでに京城を出発した後に、将軍称号変更の通告があったため、朝鮮宮廷では大議論を呼び起こしたが、結局は日本の武力を恐れ通告に従った事実がある。将軍から朝鮮国王への返書中の文字(現国王粛宗より七代前、第十一代中宗の呼び名・懌(えき))使用問題で激烈な対立が生まれたのも、使節迎接で不満が表面化したのには上記のような心理的背景があったのである。
国書書式の変更は、徳川将軍と朝鮮国王との間の往復書簡に三代将軍の時以来の「日本国大君」をやめて、「日本国王」の称号を用いることにしたことである。白石の考えでは、この称号は家康の時の先例にかえるものだったから、「復号」と称した。これは明らかに白石の誤解であるが(先例は足利三代将軍義満の時)、国際政治上の用法としては当時雨森芳洲・松浦霞沼ら同門の人々から非難されたように、不当でも僭越でもない。朝鮮側で当初からそれを望んだから、三代家光の時の対馬藩での文字改変事件が発生し(日本国主を日本国王に改めた)、これが原因となって寛永十三年(1636)以後「日本国大君」が新たに使用されることとなった。
しかし「大君」の称は、白石に言わせれば、「異朝」=中国では天子の異称であるから(「周易」に見える)わが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越のそしりを免れないし、朝鮮の場合は「大君」は王子の嫡子をさすから臣下の称号を用いることになり、彼の国から軽薄される結果となってしまう。白石の構想した将軍と朝鮮国王の位置付け、
天皇=清国天子が対等、その臣下で、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王

というものだった。ただ朝鮮側が反撥したのはその内容ではなくて、その変更が事前の連絡もない一方的な通告だった点にあるのである。そして使節一行の江戸到着に大問題となったのは、むしろ先述の国王中宗の呼び名使用であり、これをめぐって白石と正使趙泰億との間に激しい抗争があったわけであるが(国諱論争)、相互の文字修正で最終的には妥結した。

ここでは白石が、天皇を将軍より上においている。この天皇=清国天子、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王という図式にした新井白石はまさしく「尊皇家」だ。
私が学校の先生なら、この図式は試験に出します。

他方、使節待遇はやはり朝鮮側の誤解を招き、抗議を受ける場面もあったが、けっして冷遇したわけではなく、後に使節たちも認めたように礼遇の側面もあったのである。そもそも白石の対朝鮮外交の基本方針は、1・和平、2・簡素、3・対等、の3つにあった。1の和平は家康以来の和親外交であり、2の簡素は財政的見地と名分論から出てきた方針である。3の対等は外交上において均衡をはかるという考え方に由来している。白石の解釈では、家康の時には朝鮮使節の応待は琉球使節と同様に簡素なものであり、朝鮮側のわが使節の応接は簡略に過ぎるくらいだったとする。実際、この応待のため幕府はもちろん、大名一般国民の負担は大きく、種々の煩わしさをも伴ったから、何も江戸まで来させる必要もなく対馬で応接すればよい、というのが白石の本心だった。(この意見は使節の帰国後に将軍に上程された)そこで白石は使節たちの対馬・江戸間の道中での応接および江戸城での接待を簡素化したのであるが、これには使節の方でも格別不満はなかったようである。ともかくこの簡素化によって、応接費用が従来のほぼ100万両から60万両に減じた点は、評価されてよい。
その不満とは反対に、冷遇と感じたものは、信使辞見の儀式の際、朝鮮国王への返書を将軍自らが手渡したこと、また信使賜饗の儀に付随した江戸城内での舞楽上演(遠来の客は慰労すべきとの白石の考えに基づく)など、使節たちを満足させた。
白石のそういう心遣いにもかかわらず、国諱論争のような激しい対立を巻き起こしたわけであるが、その際将軍家宣が、最後まで白石を庇護したことは特筆に値いする。その時の波紋は、反対派が白石を非難して、ことさらに新儀をたて平地に波乱を巻き起こす者、今に両国の間に戦争が起こるかもしれぬ、などと言い触らしたことで、白石の辞職の提出にまで発展したのであるが、家宣の全面的な白石指示により事なきを得た。家宣の口から、自分と白石とは「一体分身」であるとの言葉が吐かれたのは、この時のことである。そればかりか、このたびの白石の努力と成果を認め、五百石を加増してその労に報いたのである。(合わせて千石となる)
白石はこの朝鮮使節応接のことが世間一般に自分の存在を知らせる契機となった、と告白しているが、さらに名声は朝鮮にまで及び、一流の詩人・すぐれた学者と認められるきっかけを作ったのである。まさに文化外交の名に値する快挙だったといえよう。しかし白石その人は、その成果を以って己の功とはせず、「すべて此度の事、君(家宣)び霊に頼れり」と言い、さらに「すべては、これ我国の霊による所也」と述べている。

面白いのは、強硬な対朝鮮外交を行う白石に対して、日本国内でも反対派が騒いだこと。それに対して、将軍家宣が全面的に白石を擁護したこと。強硬でありながら簡素に平等に外交をした白石、こんな政治家が現代の日本にもいれば、とふと思う。またそれを擁護できる人々も必要になってくるだろう。
対中国外交については、次回「その4」に続く。

で、次が「沖縄・琉球対策」
琉球

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
「琉球使節と対談・『白石余稿』」の章から。

琉球と白石との縁は、きわめて深い。というのは、現在使用されている県名「沖縄」の、その呼称「オキナワ」にこの字を宛てたのが、白石である。沖縄研究の「南島志」は先駆的名著といわれる。<中略>
「白石先生琉人問対」には、言語風俗・生活様式・宗教など文化関係記事が大量に含まれるが、白石は琉球を以って「南倭」とみなしたのであるから、基本的には同一人種であり同言語であり、習俗や生活面でも同種類似のものと考えたと認めてよい。すなわちそれは白石の質問、たとえば「別啓」(正徳四年)の中に見えるものであるが、言葉について、「琉球国中の言葉、其の国の郷談多かるべく候。日本のことばにちかく候か。唐に近く候か」と尋ね、次いで風俗についても「次ら(次郎、身分の軽い者)は、又其の風俗も日本に近き方に候か」と問うている。また文字についても、「世のつねの取り扱い、又は下賤の者の類は、日本の文字つかひに候か」と質問している。
以上は薩摩藩士への質問であるが、琉球使節への質問、「問目」を見ても同様で、白石の問い「日本に対しては日本の文法を用い、異朝(中国)に対しては異朝の文法を用いているように見えるが、国内で下賤の民までも用いる文字、ことに女性の用いる文字はどんなものか」に対して、「国中の卑賤、日本の伊呂波(いろは)を学ぶ、以て俗言通用となす。女人はいにしえより筆をとることなし」と答えている。また言語関係では、詩歌についても質問には、「唐詩を学び和歌を習ひて情を慰さむ、また詩歌を以て性情を慰むる者に琉歌(琉球の歌)有り」と答え、舞楽(雅楽)についての質問には、古にあったが今はなく、「世俗の舞をなすのみ」と答えている。そのほか生活面では住居について、民家は大概は茅屋(茅ぶきの家)で「頗る日本の民屋に似たり」といい、食物については、「日本一般、乾醤(かんしょう)を用う」と説明している。なお宗教面では、寺院について「天界寺・円覚寺の僧、皆禅僧なり」と述べている。
上記の日琉関係観につき補足説明を加えると、日琉同一人種であることを白石が明言したのは近衛家の進藤刑部大輔に対してで、「琉球人と申し候とも、日本人と申候とも、そのえらひ(選)もなく候」と述べている。近代になって日琉同祖論を唱えたのは、イギリス人の日本学者バジル=ホール=チャムブレン(1850~1935)であるが、日本人としては白石の方がはるかに早い。

なるほど、新井白石は琉球人を日本人と同人種と考えていた。これは当時としては特筆すべき識見であった、というのだ。

次は対琉球外交の強化の章から

この対策の背景には、琉球が朝鮮とは違っていながらも、清朝が同じく宗主権を持ち、朝鮮同様に朝貢を要求したこと、現実問題としては日本の銀が琉球を媒介として清国へ流出したということがある。したがって、白石の琉球の関心には深いものがあった。
もう一つには、国防的見地からのもので、既述の通り康煕帝とは同年の生まれだとの認識から、彼にライバル意識を持っていたことがある。康煕帝は清国の版図の拡大に務めたから、白石がその活動に神経をとがらせたのも無理はない。
ともかく北の蝦夷地と並んで南の琉球は、白石が非常に関心を寄せた土地で、両地域についての研究の結晶が「蝦夷志」であり、「南島志」だった。この二書は実は、初名が「蝦夷考」「琉球考」であり、そしてまた両者をあわせたもの、「南北倭志」でもあった。白石の意識では北は韃靼(タタール)の侵略に備え、南は清帝国のそれに備えることが国防上必要だったのである


「白石先生琉人問対」を見ると、琉球王家をはじめとして政治・経済・社会・地理物産・言語習俗・生活様式・宗教関係の記事が大部分を占めるが、ほかに明朝・朝鮮関係事項が少なからず含まれており、とくに清朝関係の記事の多いことが注目を引く。
この事実は、先述の康煕帝の対外経路に対する白石の関心と警戒心との深さを裏書するものであろう。これに対して使節側は、朝鮮が魁梧(かいご・壮大)で「威風凛々たる者、更に多し」などと答えて、自国の背後に大帝国清の存在を誇示し、白石を牽制した。


江戸中期においてすでに、日本の国防を考えていたとはすごい。しかも中国(清)を仮想敵国ととらえていた。しかもその争点となるのが「沖縄・琉球」だと想定していたのだ。
やはり東アジアにおいては今も昔も、地政学上、「沖縄」は重要な軍事地点になっているようだ。
これは現代においても、アメリカ軍基地が沖縄に集中して、中国や東アジアを牽制していることからも分かるし、中国が沖縄に領事館を作らせろなんて要求を出し、何かと沖縄に口を出してくるというのでも分かる。

また「折りたく柴の記」から、「琉球の国書の問題」。

「十一月(正徳四年・1714)には、琉球の使来て、御代をつがれし事をも賀しまゐらせ、其王(十六代琉球国王・尚敬)の代をつぎし事をも謝し奉る。lこれよりさき琉球より奉れる書法は、我国にて往来する所のごとくなりしを、其王尚益(先代)が代より其書漢語を用ひ、書函(国書を入れる箱)の式等も改れり」と。
しかしその書式・表記等に白石は不適当と思われる点を認め「ありし御代のごとくならむ事は、国体においてもしかるべし」と考える。白石がこの点非常に神経質に見えるのは、もちろん琉球の背後に中国を見ていることと、漢字の「意味・用法」が日本と中国では違うという点なのである。従って、何か問題が生じ、琉球王国が先例となった場合、日本の「書法」で日本の「書函」なら、これは「日本の用法はこれこれの意味だ」と主張できても、中国の形式をとる以上、それは主張しても通らないことを彼は知っているからである。たとえば「……台の字の事、我国にてこそ、大臣の事に限りて、称ずる事なれ……

ここでは、白石が国書の文字や用法について、細かく口を出し、いちいち書き改めてさせている、というのが出てくる。それもこれも中国(清)対策からだ。
これを読んで思ったのは、これ、現在の中国と韓国の日本に対する外交姿勢に似てないか?ということ。
靖国問題でも教科書問題でも、なぜそんな細かいことまで言うのか?と些細なことまで、日本に要求してくる。
そういった細かい要求を出し、それを行わせる、これを繰り返すことによって優位に立つことを目的としているのではないのか。
新井白石の執拗なまでの要求、細々としたところまで修正を求める態度、これによって「日本」の存在感を示し、上位に立とうとしているのだ。(琉球に対する要求だが、あくまでもその背後にある清国を念頭に置いている)
こういった芸当ができる政治家・官僚が、今の日本にはいないようだ。
「友愛」という名の「土下座外交、謝罪外交」になっているのでは、と思うのは薄々感じているところだろう。
では、新井白石の外交とはどういうものであったのだろうか。
仲尾宏著「朝鮮通信使」(岩波新書)から、

「江関筆談」(白石と朝鮮側の正使との会見は、通訳なしの筆談で行われた)には、正徳元年・1711年11月5・6日の両日にわたって江戸城中で繰り広げられたこの筆談は双方の体面を賭けた適度の緊張と東アジアの故事来歴の知識をおりまぜた文化・学術交流の場の記録である。席には途中から通信使の他の随員や雨森芳洲らも加わった。
皮切りは海外知識の交換から始まった。この点では白石がイタリアの宣教師シドッチを尋問した実績にものを言わせて朝鮮側を圧倒した。その結果、必要なら世界地図を進呈してもよい、とさえ言う。次に中国文明の伝承について、朝鮮側はわれこそ中華文明の正しき伝承を伝えている、と言えば、白石は、そうはいってもせいぜい明代のものである。日本には古代の夏・殷・周の風を伝えているものがある、という。そして宴席では雅楽の一つ、高麗楽の演奏を聴かせて、通信使を瞠目させた。そして朝鮮が清国の風儀を強制されないで済んでいるのは、南方の日本の存在があるからではないか、とさえ言う。そして最後に両者は室町時代後半に日本へ通信使の書状官として来た『海東諸国紀』の著者・申叔舟の国王・成宗に宛てた遺書「請う、日本と和を失うことなかれ」という有名な一言に言及して、両国の平和をお互いに望みあった。

白石の強気な姿勢は、「朝鮮の知識人には朝鮮こそ朱子学を中心とした『東方小中華』の国である、とする自己中心の文化意識をもつ」(日本を一段下にして卑下していた)彼らの鼻っ柱をまず砕くことにあった。だが、白石は決して朝鮮と戦争をしようと思っていたわけではない。最後には両国の和平を望んでいたのだ。「新井白石が、国家戦略的立場に立って、対等で簡素な外交の原則をより完全にしようとした試みも注目すべきである。」(鉤カッコの部分は上記の本の引用)とあるように、相手国に媚びることなく、対等な外交をするにはどうすればいいのか、考えた人だったのだ。

世界を見て、日本の外交・防衛を考えた、そいういう大局的な視点を持っていたとなれば、これは勝海舟に似ているかもしれない。
白石がイタリア人宣教師・シドッチから西洋の知識を貪欲に求めたように、勝海舟も西欧の知識を求めた。
また経済にも明るく、口も文章も達者。(しかも晩年は自分の事蹟を多少ひけらかす点もどこか似ている。)

こういう人物こそ、現代の日本には必要ではないのか、そんな気がします。

ということで、次回に続く。
さらに詳しく「山本七平が見た新井白石」です。

シリーズ 新井白石編その2 新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その2
2、新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。
前回は、新井白石が新田源氏を名乗った経緯を見ていきました。そこで重要なのが、最後の「まとめ」部分で引用した、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」の記述で、太字の大文字にしたところです。
またしつこく引用すれば、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」、「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」とある。(これからも何度もここは引用します。)
新井白石は新田氏を名乗ったゆえに、何を意識し、何をしたか、ということです。
結論からいえば、今回の「皇室の皇統を守った」ということと、次回の「日本という国を中国から守ろうとした」ことになる。

ではまず、本題にはいる前に、「平成皇位継承問題」について。
近年、マスコミでは「皇太子、雅子さまのこと」とともに、「女性・女系天皇」「皇統断絶の危機」など皇室を取り巻く問題をネタにした記事が、文芸誌、一般誌、女性週刊誌を問わずデカデカと載るようになった。
特に、これから大きな議論を呼ぶことが予想される「皇位継承問題」は、注目されるところである。
Wikipediaでは、

1965年の秋篠宮文仁親王誕生以降、長く皇室に男子が誕生しなかったため、将来的に皇室典範に定める皇位継承資格者が存在しなくなる恐れが生じた、2000年代に入って表面化した問題。皇位継承資格者の不足という問題を解決するために、史上前例のない女系天皇を容認すべきか否か、あるいは皇位継承について定める「皇室典範」を改正すべきか否か、皇位継承順位をどのように定めるべきかという問題でもあるため、女系天皇問題や皇室典範問題などともいわれる。
2004年末に当時の内閣総理大臣・小泉純一郎の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設置されたことにより関心が高まった。2006年に41年ぶりの皇族男子として悠仁親王が誕生したものの、依然として皇位継承資格者の不足という問題は残ったままである。

とある。
いまこの問題は百家争鳴の状態で、簡単に答えの出る問題ではない。まして時間が解決してくれる事案でもない。ただ、畏れ多くて触れてはいけない事とされ、いつまでも棚上げされてしまう状態こそ憂慮されることであり、何よりもあまり時間があるようには思えない。(究極的には男性天皇か女性天皇か、に尽きる)

この問題について、最近読んだ本では笠原英彦著「象徴天皇制と皇位継承」(ちくま新書)が衝撃的だった。帯では、「現在の皇室の危機はマッカーサーが仕掛けた時限爆弾」とあり、本書ではここにある大きな問題点を指摘している。
笠原英彦「象徴天皇制と皇位継承」
まえがきには、

戦後、GHQの占領統治下に入ると、一夫一婦制を規範として側室制度は廃止された。これにより、皇位継承権をもつ庶子の存在に終止符が打たれた。GHQはこれに追い討ちをかけるが如く、多くの宮家に皇籍離脱を求めた。それでもなお、皇室典範では旧皇室典範を踏襲して皇位継承資格を「男系の男子」に限定した。国会ではかなり踏み込んだ議論が展開されたが、政府関係者の現状認識と将来展望は極めて甘かったといわねばならない。
現行の皇室典範のままでは憲法第二条の「世襲」(血のつながり)をまもることすら難しい。天皇制の短期的存続、長期的廃絶をねらう米国国務省やGHQの意向は、マッカーサーにより「皇統断絶という時限爆弾」として周到に仕掛けられた。
サンフランシスコ講和の直後に政府が皇籍離脱した旧皇族の復帰を進めなかったのは、天皇制の存続、昭和天皇の免責に満足し、将来における皇位継承の危機を何ら予見できなかったからである。今上天皇に二人の親王が誕生したことも、結果として構造的欠陥を抱える皇室典範の改正を先送りすることになった。

とある。結果「女性天皇容認すべき」という論が展開されている。ただし「男子天皇派」も必読の書。

また八木秀次著「本当に女帝を認めてもいいのか」(洋泉社)
にこんな一節がある。
八木秀次 

出でよ!平成の新井白石
百二十五代の今上天皇はこの閑院宮家出身の光格天皇の直系に当たります。つまり今上天皇のほんの数代前にもそういう男系皇統が途絶えかねない危機があったのですが、見事に乗り越えられたわけです。したがって、私としてはこの事蹟に倣って「平成の新井白石」のような政治家なり官僚なりが今こそ出てきて、宮家を復活、創設するなり、養子を認めるように皇室典範を改正するといったリーダーシップを発揮してほしい。

とある。皇室関連の本では、この問題を解決する糸口の一つとして、新井白石の「閑院宮家創設の建議」を取り上げることも多い。
やはり、強力なリーダーシップの取れる人物が必要だ、ということだろう。(それがいないのが大問題だが…)
また八木秀次の本に以下の解説もある。

光格天皇は閑院宮家の出身である。閑院宮家は新井白石の建議により1710年(宝永七年)に創設された新たな宮家である。白石は徳川将軍家の世継ぎ問題が深刻であり、徳川家でさえ、世継ぎ確保のために大奥を設けたのみならず御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)などの分家を用意している。朝廷・皇室も世継ぎ確保のために備えをすべきであるとして宮家の増設を提言した。その結果、伏見宮、桂宮、有栖川宮を加えて新たに閑院宮家が創設され、実にその約七〇年後の1779年(安永八年)に光格天皇を出したのである。
もしその時、新井白石が宮家の増設を提言しなければ、光格天皇の誕生はなく、したがって明治天皇も大正天皇も昭和天皇も、今上天皇もない。それどころか皇統は断絶していたかもしれない。
幕府の専横によって貶められていた天皇の権威を回復させたのが光格天皇である。光格天皇は傍流であった閑院宮家出身のためか、逆に天皇であるとの意識が強く、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。朝廷の権威の復権に務め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。
光格天皇は後桃園天皇の急逝に伴って、わずか九歳で即位した。やがて光格天皇は「日本国の君主としての天皇」という意識を強烈に持つに至る。


やはり、現代にも求められるのは「新井白石」のような「先見性のある人物」であろう。
この点において、作家の山本七平は新井白石を高く評価している。
「天皇制を正確に分析し、正しく評価した最初の日本人は白石であろう。
彼は、天皇制をはっきりと二期に分けており、この考え方は、「読史余論」でも「折りたく柴の記」でも一貫している。」とある。
山本七平の日本の歴史
(画像は、「山本七平の日本の歴史 上・下巻」(ビジネス社) 南北朝時代を中心にして「天皇制」を鋭くついている。山本七平が生きていたら、現在の皇室問題をどう見るのか、聞いてみたいところ)

では、新井白石の閑院宮家創設の経緯を見てみましょう。
折りたく柴の記 中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳

 親王・皇女のお取り扱いについての意見書 
二十七日に参上した際、また意見書を奉った。その大要は次のとおりである。
「わが神祖(家康)は、天から勇気と知恵を授かり、天下を統一なされたが、これは御先祖代々が徳を積まれたためであり、これによって子孫万世の事業をお始めになることができたのである。だから、男女の御子たちが多く、そのうち早世された方もあったけれども、大藩に封ぜられて、いまもその子孫が栄えておられる方が四人まである。(紀伊・尾張・水戸・越前)。二代(秀忠)の御子で、大名となられたのは、駿府殿の事件(忠長の改易・自殺)があったあとは、いまはただ会津殿(保科正之)の子孫のみがおられる。三代(家光)の御子で、大名になられる方も二人おられた(館林の綱吉、甲府の綱重)。四代将軍(家綱)になって、お世継ぎの御子がなかった。なくなられたときには、御兄弟も御先代綱吉公だけであったので、御養子となられてから、お世継ぎとなられた。御先代の治世のはじめには、若君(徳松)がおられたけれども、まもなくなくなり、そのあとは御子がおできにならなかったので、御当代(家宣)を御養子とされたのである。だから、三代以降、将軍家のお血筋の絶えることがすでに二度までもあった。
神祖ほどの徳をもっておられてさえ、まだ百年たらずのうちに将軍家のお血筋がこのようになったということは、その理由がないわけではない。ましてただいまは、御先代の御養子となられたのであるから、私としては、ひそかに深く憂いている。このときにあたって、天が下した禍いを悔い改めて、徳川家に新たな天命がおりるようになるには神祖の徳を継承する以外にはない。もっともそれらのことは、私が二十年ほどのあいだ進講したところだから、いままた詳しく申す必要はない。
その中で申し上げておきたい一つの意見がある。元亨・建武のあいだ(後醍醐天皇の治世)、皇統がすでに南と北に分かれ、南朝はまもなく絶えてしまわれた。北朝はもともと武家のために立てられたものであるから、武家の治世と盛衰をともにされるべきであるが、応仁の乱のあと乱世がつづき、武家がすでに衰えた以上、皇室が衰えたことは言うまでもない。当家の神祖が天下統一されるに及んで、皇室でも絶えたしきたりを継承し、すたれた諸行事を再興されたのである。
しかしながら、皇室では、皇太子のほかは、皇子・皇女がみな御出家されることは、いまでもなお御衰退の時代と変わっていない。すべて身分の低い男女といっても、子を産めば、必ず家をもちたいと思うのは、世の中のむかしからの人情である。また、いまでは、農・工・商のたぐいの者でも、男にはその財産を分けてやり、女には嫁入り先を求める。まして侍以上の者では、そうでない者は一人もいない。こういう世のなかの慣習として長く続いているので、皇室でも、いま改めて申されることはないにせよ、こうした皇族御出家の慣習を希望しておられるとは思われない。たとえ、また皇室からお申し出がないにしても、これらのことについて改善の処置がなされないことは、朝廷にお仕えする義務を果たしたとは言えない。いまは、公家の人々は領地をもっているのだから、皇子が親王にお立ちになっても、どれほどの土地を差し上げるわけでもない。皇女が御降嫁なさっても、どれほどの国の財産を費やされるわけでもない。この国をひらかれた天照大神の御子孫がこんなようでいらっしゃるのに、徳川家康公の御子孫が常しなえに繁栄されることを望むというのは、いかがなことであろうか。
しかし、私が言うようにしたならば、これからのち代々の皇子・皇女が多数おられるようになっては、天下の富もそれぞれお受けになるところが足りなくなるのではないかと言うこともあるかもしれない。むかしから、皇子・皇女が数十人おられた御代も少なくないけれども、それらの御子孫がいまにまで続いておられるのは、いくらもいらっしゃらない。『天地のあいだには、自然の定数というものがある』とむかしの人は言った。これらのことは、人間の知力ではおしはかることはできない。ただ道理が合っているかどうかだけを論ずるべきである。
また、皇子の御子孫が多くなっては、けっきょくは武家のために不利なこともでてくるのではないかということもあるかもしれない。高倉宮(後白河天皇の第二皇子以仁王)の令旨によって、諸国の源氏が蜂起したけれども、これは平清盛に非道なことが多くて、家が滅亡すべき時期にきていたのである。もしこれらのことを教訓とするなら、北条高時が滅んだときに令旨を出されたのは、梨本の御坊(大塔宮護良親王)ではなかったか。だから、たとえ出家された御身分であっても、武家に不利なことがないとは言えない。これらは、ただ武家政治の良否のみに関係することである。すべてこれらのことをよくよくお考えになっていただきたい」
この意見書をご覧になったあとで、二、三回仰せがあったのち、「おまえの意見は道理にかなっている。しかし、これは国家の大計である。十分に考えてみよう」と仰せがあったが、やがて、いまの法皇の皇子秀の宮(直仁親王)と申す方に、親王になられる宣下を下されるようにと仰せだされた。その後また御先代(七代、家継)に皇女(霊元天皇の皇女八十宮吉子内親王)が御降嫁されることも決められた。
これらのことは、私がこの国に生まれて、天皇の御恩に報いたことの一つである。しかし、私がひそかに憂いていたように、御先代がお亡くなりになって、とうとう将軍家のお血筋が絶えたことは、人力のとてもおよぶところではない。しかし、また私がこれらのことを申し上げておいたこともあるので、将来のことも深く考慮しておかれた通りに、御当代(八代、吉宗)があとをお継ぎになられたことは、これまた天下にとって幸いと言うべきであろう。

秀の宮のこと、ある高貴な方が昔から親王家を立てることは困難なことだという理由でとめられたが、その意見を用いることなく、朝廷に申し出されたと聞いた。まことにありがたいことである。しかし、このことは私が直接お聞きしたことではないので、本文にはかかなかった。

この意見書は、朝廷から将軍任命の宣旨をうける儀式に関係したことがあったので、そのときに提出したものである。

とある。
ついでに、新井白石が尊王家であったと思わせる記事を、「折りたく柴の記」から拾っていくつか載せておく。

「天皇元服の儀式拝観、琉球使節に伏見で会見「宝永八年(1711年)正月元旦、天皇御元服の儀式を拝観した。この日、まぢかに天皇の拝見したのはありがたいことである。」

「法皇の姫宮お輿入れの相談 「この年の冬、霊元法皇の姫君が上様にお輿入れなさることが決まり、来年の春には、阿倍豊後守正喬殿がそのことのお使いを承ると噂された。これは武家始まって以来はじめての例である。いまは見果てぬ夢となったけれども、このうえなくありがたいことである。」

とある。
幕府の中核にあって、皇室に目を向けていたという人物はそれほどいないであろう。

また、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」では、こう解説している。
人物叢書 新井白石

朝幕関係の融和増進
まず朝幕関係であるが、初代家康の時、禁中並公家諸法度が作られて以来、表面は恭順を装いながら実際には幕府は朝廷抑圧の方針を採り、二代秀忠の時には早くも紫衣事件を引き起こして、三代家光までは両者の間には緊張関係が続いた。それをある程度緩和したのが四代家綱の時で、五代綱吉に至って御料地の増献や天皇御陵の修理など種々の朝廷尊崇の態度を示したことにより、ようやく感情の融和がもたらされたのである。これをさらに促進したのが家宣の時で、それには家宣の正夫人を代表的公卿、近衛家から迎えたという婚姻政策も多分にあずかっているが、白石の進言、皇子皇女の出家廃止案が採用されたことが、朝幕関係を格段に親密化し朝廷の幕府信頼を確定的なものとしたと認められる。この白石の進言の根底をなした理念が、皇室と徳川家の共栄であった点において、従来の幕府側の対朝廷策とは異質なものであり、次元を異にするものだった。
この進言は家宣の将軍就任早々のことであるが、その要旨は、神祖(家康)の功徳にもかかわらず、どういうわけか当家の世継ぎは順調に進まず、三代以後嫡流の絶えること、すでに両度に及ぶという憂うべき状態にある(四代家綱に後嗣なく五代綱吉の嗣子も夭折した。)こういう不祥事を取り除くためには、将軍自らにおいて神祖の徳をつがれることが必要であるが、他方では朝家の御栄えをはかることも考慮されなくてはならない。ところが朝家の現状を拝見すると、皇太子以外は皇子皇女ともに皆々出家される状況は中世の衰時と変わるところがない。これは人情の自然にもそむくことであるが、長い間の習慣のため朝家でもこれについては何も申されない(現状を黙認)のであろう。朝家がこういう状態に陥っておられるのに、当家のみが永久に栄えんことを望むのは不合理というべきであろう。皇子皇女が多数になられれば朝家の費用がかさみ、財用に事欠くに至るだろうとの意見も出てくるであろうが、天地の間には大算数(人智では測りがたい循環の理法)というものがあるから、案ずるには及ばない、要は理の当否をこそ問題とすべきである、というものだった。
この進言を道理にかなうものとして家宣が一応受理したが、「国家の大計」に属する事柄であるから熟慮した上で、岳父の近衛基凞を通じて朝廷側の意向を聞き、中御門天皇がこの提案を嘉納されたとの通報に接し決断を下した。結果は白石の進言通り事が運び、宝永七年(1710)八月に至って東山天皇の第七皇子秀宮(直仁親王、中御門天皇の御弟)に親王の宣下があり、いわゆる閑院宮家の創立となった。(宮号はのち享保三年<1718>にあたえられる)
自らの進言が現実を見たことについて白石は、「これらの事ども、我、此の国に生まれて、皇恩に報ひまゐらせし所の一事也」と述懐している。
この閑院宮家の創立の意義の大きさが立証されるのは約七十年後のことで、後桃園天皇には皇子がなかったため秀宮の孫宮・兼仁親王が天皇の猶子(養子)となって皇位を継がれることになり(光格天皇)、皇位継承に支障がきたすことがなかったのである。
こういう事態は白石の予想しなかったことであるが、その朝幕共栄の理念と願望、これを朝廷側に即していえば、白石の皇運長久の念願と遠い慮りとは皇位の断絶を救うことになったわけで、明治になってから(40年)白石に対し正四位が追贈された主な理由は、右の功績にあったようである。
他方皇女の場合について見ると、秋子内親王の伏見宮家への婚嫁があった。これは次の七代将軍家継関係のことであるが、正徳五年(1715)に霊元法皇の姫君、八十の宮(やそのみや)の家継の降嫁決定という慶事があった。幕府の降嫁奏請は同年九月上旬のことであるが、同月二十五日に勅許がくだった。時に将軍家継は七歳、八十の宮はわずかに2才という幼少の両人の婚約であるが、これも朝幕融和策から出た案として注目されるもの、不幸にして家継が翌六年四月末に死去したため結実しなかった。しかし八十の宮はこれ以後、この婚約を尊重され四十二年の長きにわたって独身生活を続けられたのである。宮の貞節は見事であるけれども、痛ましい限りと申すべきであろう。
白石は「これ武家の代はじまれる此のかたの初例なるべし。今は見果てぬ夢なりけれど、誠にありがたき事にこそ」(折りたく柴の記)と述べ、自らの理想の実現しなかったことを嘆いている。この文面からしても、幕府の八十の宮は降嫁奏請は白石の献策に基づくものだったことが推測される。
白石はとくに朝鮮との外交に際し、将軍の書簡に「日本国王」号を用いたことで当時以来強く非難批判を受けてきたし、幕府中心の政治観においても同じく批判にさらされてきたが、師順庵の影響もあって、「天子一姓」のわが国の姿を是認し、また自負していたのであって、上記「朝幕共栄」案が生まれたのも自然のことで怪しむに足りないであろう。



まとめ
山本七平は、新井白石の天皇観を以下のようにまとめている。
「天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考えが基になっているのである。と同時に白石は、公家と武家は、はっきり別のものと考え、この二つを一種の『教権』『帝権(政権)』の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないとも考えている」
まさしく「朝幕共栄」「「朝幕併存体制」である。
これについては、井沢元彦の「井沢式、日本史入門講座5 朝幕併存と天皇教」(徳間書店)が詳しく、分かりやすい。「日本では、鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで、「朝廷」と「幕府」がともに存在し、両立している、これは中国史にもヨーロッパ史にもない世界でも珍しい体制なのだ。」というのだ。
井沢元彦「日本史入門」(読みやすく、理解しやすい。)
これは、ある意味、福沢諭吉の「帝室論」と同じ考えだといえるかも。(「帝室論」は後日)

さて、「天皇制」「「皇位継承問題」については、多くの人が発言し、様々な意見が出ている。ただ、サヨク的思想の持ち主の「男女平等の観点から女性天皇がいい云々」「皇室の人々には自由がない、基本的人権の観点から云々」といった偽善的妄説や、「我々の税金が皇室に無駄に使われている云々」「愛子さまが可哀相だから云々」といった浅慮な妄言などを聞くと、本当に嘆かわしくなる。元々、「皇室」「国としての日本」「伝統や文化、歴史」などを深く考えたことのない人々である。意見を述べるのは自由だが、この的外れな言説にマスコミをはじめ一般人も、右往左往され、惑わされ過ぎているように思える。
「皇室を守る」「日本を守る」というものを考えるときに必要なのは、日本を憂慮した先人たちが残した意見あり、そこに耳を傾けるべきなのではないのか。
本居宣長、平田篤胤らが今の日本を見たらどう思うか。福沢諭吉、安岡正篤が今の「皇室問題」を見たら、何を提言するのか。
そういった先人の偉大な国士たちが、今現在生きていたら、何を発言し、どう行動したのだろうかを考えるべきなのだ。こういった視点を持つことが、現代の皇室を取り巻く問題を解くカギになるかもしれない、と思う。
そして、新井白石は皇統が絶えるのを危惧し、宮家創設を進言したのだ。(中川八洋の「旧皇族の皇籍復帰による、男系男子(男性天皇)主義の絶対維持」に近いだろう)
中川八洋

まあこれくらいにしておかないと、今回の本題からどんどん外れてしまうので、これら「皇位継承問題」は後日ということで。
何はともあれ、「新田源氏を名乗った新井白石が、皇室を守ったということは動かしようもない事実なのである」、この一点だけはお忘れなきように!
(そして、正田家は新田一門だ!ということも……。)

次回に続く。
3回目は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。

新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編 1、新井白石は「新田源氏」だったのか?

新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編その2
前回の続き

では、1、新井白石は「新田源氏」だったのか? を見ていきましょう。

新井白石の事蹟については、省略。Wikipediaで確認を。
ここにもあるように氏族は「上野源氏新田氏庶家」とあり、脚注では「 『姓氏家系大辞典』(太田亮、1934年)などでは白石の遠祖は新田義房の子荒井覚義の子孫とする。加えて『系図纂要』では白石の祖父の代に新井姓に改めたと伝える。」とある。
まあ、通常の知識としてはこれくらいでいいのですが、当ブログでは新井白石が新田源氏を名乗ったことが重要であり、このシリーズの根幹となるところなので、詳しく見ていくことにします。
(あとは長文の引用が続きます。要点は「まとめ」のところで)

まずは、新井白石著折りたく柴の記(中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳) から。

祖父母のこと
「私の祖父は勘解由様と言い、祖母であられた方は、染屋某の娘である。お二人とも、常陸の国の下妻庄でなくなられた。新井というのは、もともと上野国の源氏で、染屋はもともと相模の国の藤原氏であるのに、……」

とある。
また世良田長楽寺所蔵の新田氏系図 のところでは、

上野国新田郡世良田庄の長楽寺の住職・広海住職は、私が年来親しかった人である。その寺の宝蔵に鎌倉時代の代々の古文書と古い新田氏の系図が一巻あった。
世間で知られている系図と同じものではない。私の家の姓などのことも書かれているので希望したところ、写しを取って下さった。それはものを調べてみると「世間で知られている徳川家の御系図というものには合点がいかぬところがある」と思っていたが、家宣公がお世継ぎになられたのち、御系図のことに言及されたので世上に通用している御系図には十の疑問点があることを記して差し上げた。
その後、また近衛の竜山公(近衛前久)がその子三貘院(さんみゃくいん・近衛信尹)へ差し出された手紙があるわけであって、いまの太閤(近衛基熙)から上様にご覧入れたところが、私が申し上げたところと合致するところがあったので感心されたとの仰せがあった。
こんど若君が御誕生になって世良田とお呼びしたことによって、あの広海僧正がやがて日光の准后(輪王寺宮公弁法親王)を通じてその系図をしたいと言われたので同月二十九日、准后がその旨を伝えられ、僧正のおられる寺から結局(八月二日)御系図を献上された。

私の家にある新田系図一巻は、その僧正のおられた寺の斎藤という者に模写させて送られたものである。また竜山公の書と題して小さな奉書紙を二つに切ってつないだものに書いたのは、あの太閤がご覧に入れたものを私に写させられたときに、お許しを得て、「私も一本写しとうございます」とお願いしたところ、「好きなようにせよ」と仰せられて写し取ったものである。

とある。
新井白石 新田三家考(画像は「上州及び上州人」大正11年 57号~64号まで、新井白石「新田三家考」が掲載されている。)


次に橋本幸雄著「長楽寺改宗と天海」(岩田書院)
から。 

「寛永寺と増上寺の確執の要因と新井白石の主張」の章
新井白石の随筆「折りたく柴の記」によると、正徳四年(1714年)十一月、増上寺の住職、三十七世大僧正詮察が幕府に、「来年は家康公の百年忌に当たるので、唐山の安国殿(家康公の廟所)の修復を兼ねて法要を行いたい」と幕府に願状を差し出した。
それを要約すると、「安国殿の神像は自分の姿を鏡に写して作らせ詰めと髪を中に込められたもので、三代家光公までは御尊敬の念は特別のものであったが、四代家綱が幼少であったので、参詣も途絶え、家康公の神殿も草むらの中に朽ち果てて仕舞いました。家康公の神殿は奥行き六間、間口十五間、内部は畳六十六畳を敷き、社殿の前に鳥居が立っており、これは全国六十六州を鎮護される為のものです。御先祖大光院殿(新田義重)以来、浄土宗に帰依されていたので、家康公がわが宗の奥儀を伝えられた時、戒名を「安国院徳蓮社祟誉道和大居士」とお付けました。
そして三年忌の法要まで当寺で行われましたが、日光山に家康公の遺体が改葬されて後はわが寺で法要などが行われなくなりました。御先代(六代将軍家宣)の時、家康・秀忠公の御志を継がれ、わが宗が御再興下され、わが寺で家康公の百年忌を行う事は、御先代の家宣の御意思を継がれる事となります。近くでは五代将軍綱吉(常憲院殿)の御法要も我が寺で行われた例がございます」と、願い出たのである。
これに対して幕府老中は如何したものか御用人の間部詮房に相談した。詮房はその事を新井白石に一任した。
新井白石は上野国世良田長楽寺の文書を引用して、御先祖が代々浄土宗に帰依していたということは無い事、又和泉入道殿(家康の六代の祖・松平信光)の時から浄土宗に帰依されていたが、本光国師(崇伝)の日記によると、家康公の御中陰の御法事は増上寺で行われているが、内々の事だったので上皇から送られた御香奠も受け取っていない、又、その後の一周忌・三周忌の法要は増上寺で行われた訳ではない。そして当時の東照宮の法要の日記を差し出すよう求めた。又安国殿の参詣が無くなったのは浄土宗の改旨を改められたからであろうか、それらの事を書面に書いて返答するように要求した。
それに対して増上寺側は、当時の日記は度々の火災で失い証拠となる物がない事、始めは安国院などの号でお呼びしていたのだが、元和三年(1617年)二月以来東照宮大権現の勅諡号だけを唱えるようになり、この度の家康公の百年忌の催しが許されるなら、わが宗にとって、これ以上の興隆の機会はありません、と答えた。それに平岩主計頭親吉の著作「三河後風土記」を例に出して、そのことが詳しく記されていますと、答えた。
新井白石はそれに対して、親吉は家康公の亡くなる以前に他界しており、家康公の亡くなった時の事が書けるわけがなく、それは増上寺のまったくの妄想だと一蹴している。そしてこうした事柄を明らかにあいた上で、浄土宗は徳川家が代々御尊崇された宗旨であり、増上寺は徳川家康の菩提寺である。それなのに、そのような根拠の無い事を言うと、他の寺院等に聞こえた場合不味いことになると書いて、願い状を下げ渡した。やがて増上寺側から始末書が出され何も言わなくなり、この事は一件落着したのである。
これを見るに、白石が増上寺側に詭弁を呈して無理やり屈伏させた感がある。白石は先に述べた、長楽寺文書を例に上げ真っ先に増上寺側に反論している。長楽寺は寛永寺との関わりの深い天台宗の寺院で、この寺の調査をやった白石は、長楽寺系図に新井(荒井)姓があるのを発見し、自分は新田氏の一族で徳川氏と同系の清和源氏の家柄であることを非常に喜んで、その系図の写しを長楽寺の住持の広海僧正から貰っている。つまりこの時の調査を基に白石は「新田三家考」を著している。要するに新井白石は天台贔屓だったのである。すでにこの時から幕府内部でも政治的に浄土宗と天台宗の確執は始まっていたと考えられる。

とある。
新井白石 長楽寺古文書目録(画像は「上州及び上州人」に掲載されていた「新井白石 長楽寺古文書目録」)

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
では、

新井家系であるが、いま、白石自筆の「新井系図」(「新井氏族志」所収)によって、系図中最も確実と認められる部分、白石までの三代と、それの前書の文を掲げると次の通りである。
「新井は上野の国新田の邑の名、旧(も)と荒居に作る、今用いる字の如し。家先、新田大炊助源義重の曽孫、蔵人義兼の孫、蔵人太郎義房第二子、荒居禅師覚義の後より出づ。家紋は花菱或いは竹に雀を用ふ。兼ねて田字草を用ゆるはすなわち君美(白石)より始る。
<中略>
「新井系図」には、遠祖源経基以降の系図がある。
<中略>
これらを補うものとして、「折りたく柴の記」はもちろんのこと、同族岩松義元のために白石が書いた「岩松家系付録序説」があり、安積澹泊・佐久間洞巌宛の書簡などもある。

とあり、また、

「なお挙げれば、荒居と新井の繋がりの問題もあるが、これについても澹泊宛書簡(享保九年<1724>八月九日)において、私の家号はもとは荒居とも荒井ともしるし、上野国の由である、それが何時ごろからか新井と書き改め、上野国の地名も今は新井になっている、といい、「新田の支流に候へばそれらの事故も候歟」と述べているだけにとどまる。この件については、水戸の系図の専門家丸山可澄に調査を頼んだが回答は得られなかったようである。
要するに新井家を「新田の支族」とする白石の考案は、確証とすべき文献史料を欠くだけに、一見精密のようではあるが、そのままに信受するわけにはいかないというほかはない。ただし、白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」

勝田勝年氏は、「新井家系」が祖父を武家の棟梁である清和源氏の子孫とし、祖母を公家の棟梁である藤原氏の子孫とするのは、文武再興の門閥を組み合わせて新井家の門地を高めようとの意図から出たものである、と解釈されている。(「新井家系の研究」)。これは大変うがった評論であるが、白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。
それと同時に、「新井家系」においても「読史余論」や書簡においても、新田義貞及びその子孫の南朝への忠義忠節を特筆大書し、思慕の情を披瀝していることの理由がよく理解されるのである。

とある。
重要なのは、太字の部分。実際に新田源氏の血を引いているのかは疑わしい。しかし白石自身は自分が「新田一族の末裔」だと信じ、その「新田義貞及び一族のイデオロギー」を受け継いだという事実だ。


では、「新田一門史」の新井氏はどうかと言えば、太田市、伊勢崎市、藪塚本町、利根郡、黒保根村の新井氏についての記述がある。

そして、新井白石については、小暮氏のところに記述がある。

太田市新井に在住する小暮 氏~小暮一氏~小暮徳弥氏~小暮行雄氏
新井覚義禅師の末裔であるが、改姓した理由は、年貢の取り立てが厳しく「小さく暮す」と小暮氏とした。江戸時代寛永中期、新井九兵衛のときだった。代々名主をして苗字帯刀を許された。この新井覚義の子孫に享保の改革者、新井白石がいた。新井白石は徳川六代将軍家宣に登用された学者で彼はドッチと会談して「西洋記聞」を出版した。将軍家宣が没して、家綱―吉宗と三代に仕えた。当時、貝原益軒、稲生若水ら学者と交友した。白石は良貨を発行し、銀の海外流出を防ぐため長崎貿易を制限した。つぎに幕府の威容を張るために学殖を傾けて礼式、服制を整え、皇室を尊び、更に朝鮮の待遇を改めた。これらの政治を「正徳の治」という白石は歴史、言語、宗教なぞ多方面に当時としては驚くほど清新な、しかも考証をもとにした学問的な功績を基にした学問的な業績を成し遂げた。
彼がこのような学者だから、八代将軍吉宗は、徳川家康の地は新田荘であると称し、世良田の長楽寺や徳川邑を優遇した。これらの歴史を白石に聞いたので、吉宗は代官に命じて新田荘や寺尾にある新田義重の墓地なぞ調査した。
これら吉宗の調査書、新井白石考、松陰私語、その他沢山の記録を調べて、陸奥守源義家三男式部大輔義国長男大炊助従五位下源朝臣新田義重二十五世新田俊純が「第七十五号」華族に編入された。
(新井白石が新田氏の分族であったので新田氏の歴史や、系図書が役立ったのである。新田一門史に白石考あり)
小暮氏に本居宣長の書軸が蔵しているが、宣長は国学を前進させた学者で新井白石が活躍した享保年間、八代将軍吉宗の時代の人物である。それで小暮家に本居宣長の書軸がある、また、新井文右ヱ門照房は……以下省略


また尾島町の新井氏の項目では、

新井氏の記録は、新田氏六代基氏の次男で、新田荘六合村新井に住み、新井覚義が祖なり。基氏二男は、義貞の叔父だから、大館氏、堀口氏よりも、近親である。
大館氏や堀口氏は鎌倉攻めの大将だった。新井覚義も当然大将のはずであるが、旗頭にも出ていない。最も義貞の旗本だったと考えればいいが。新井覚義は義貞、義助に従い軍功あり。その子義基は興国元年、懐良親王に従い九州の菊池氏と豊前馬ヶ岳城に拠い義を唱えた。その子義氏、孫義高、曽孫義通らは時至らず自殺す、という記録あり。江戸時代の学者、新井白石は覚義の末裔と称す。

とあった。
それに、上州及び上州人 昭和12年・242号では、

豊國生「世良田の長楽寺と新井白石先生に就いて」
世良田の長楽寺の古文書はすべて新井白石先生が徳川家の命を受けて鑑定、整理、且つ編集したものであるが、本誌は新田男爵家の承認を得、また東京帝大史料編纂所の許可を得て、正木古文書(又は新田岩松文書)を掲出しつつあることになるが、更に同文書を姉妹関係を有する世良田長楽寺をも本誌に掲載するにつき同寺当局の快諾を得たので、これにも少しく白石と長楽寺との関係についても記しておく必要を感じるのである。
徳川家と長楽寺との関係は、徳川氏祖先以来のことであるが、専らこれが楔となったのは先に、天海僧正であり、後に新井白石ありと云うことができよう。
新井氏の祖先は新田郡新井村を出で、徳川氏と同じく新田族であると宝永の頃、長楽寺の住職広海僧正とは……以下省略

とあった。
新井白石が書いた「新田三家考」により、岩松満純は実は新田義宗の子であり、それによって新田岩松家が家系血統とともに純然たる「新田の血統」を継いだことの証明となった。これが明治維新の新田俊純の男爵叙勲につながったとも言われる。(これは井上馨・渋沢栄一編につながっています。)

そして、現在でも群馬県太田市には、「新井」という地名は残っている。
太田市新井町1

太田市新井町2
太田市地図で確認してみてください。ほぼ中央にあります。

まとめ、
新井白石が新田源氏であるかどうかは大したことではないと思われるだろう。
しかし、それが「新田一族、新田一門」あるいは、その家臣、または一緒に行動を共にした「児島高徳」の末裔だと知った瞬間から、たちまち彼らは「尊皇家」になるようだ。
新井白石もそうだった。

上記、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」にあるように、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」
「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」

とあるように、新井白石は、新田源氏として何を自覚し、何を意識したのか

ということで、次回の2、皇室の系統を守った新井白石は、新田源氏の使命だったから?へ続きます。

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